ミンガ・ラーパ!ミャンマー!
〜フレンドリーな国、ミャンマーを訪ねて〜 #22
菊正敏

2000714

22. 中国街にインド街

最後は小さな日本語ガイド

午後2時過ぎから、まだ訪れていないインド人街・中国人街付近とアウンサン・マーケットへ向かう。ホテルから西にインド人街・中国人街が位置している。まず中心部にあるスーレーパゴダから西へ向かいインド人街へ。スーレーパゴダの上の部分は現在修理中で覆いがかかっているため、太陽にまばゆく光る黄金の部分は残念ながら見られなかった。西に行くにしたがって当然だが中国系の人々が多くなり、漢字の看板が至る所で見られる。パゴダの黄金の部分は見ることは出来なかったが、光り輝く金を扱う「金行」が建ち並び、人々の往来も激しくなった。よそ見をしていると人とぶつかったり、歩道の窪みに足を取られたりする。建物は植民地時代のもので中国的ではないが、街の賑わいは中国人街。歩道の店や道端の露天を覗きながら歩く。ちなみにミャンマーの中国人は他の東南アジア諸国に多い福建省や広東省出身者ではなく、ミャンマーとシャン高原で国境をなす雲南地方出身者が多いという。さらに進むと左手にユダヤ教会。さらに派手な中国寺院にぶつかった。ここからやや東に戻りシュエダゴォンパゴダ通りを北に上がるとインド人街に出る。

なぜインド人がミャンマー社会に多く住みついているのか、という点に関して若干記述してみる。イギリスの植民地時代、ビルマの農林業や豊かな鉱産資源を開発するためには多くの人的資源が必要であるが、当時は絶対数が大きく不足していた。そこで地理的にも近く、イギリスの支配が確立していたインド各地からの大量移民を受け入れることになった。特に1886年、ビルマがインドに併合されると人の自由な行き来は加速され、上は下級官吏として赴任し、下は単純な農業労働者、その中間は金融や商業に関わっていった。農業労働者はインドのベンガルやチッタゴン地方からの季節労働者が多くを占めており、刈り取りや毎年の堤防修理に当たっていたそうだ。これらの人々の2代目3代目の人達がミャンマーでたくましく生きているのである。

中心部を東西に走るアノーヤター通りを右折するとヒンドゥー寺院が見えた。インド人街に入る。もちろんインド人が目立つようになり、あの独特なインド音楽もあちこちから聞こえ、かつてインド旅行をした時にずいぶんお世話になったカレーのレストランやミルクティーの店が多くなる。懐かしさがほとばしってくる。

有名なアウンサン・マーケットも近い。中央の入り口から中に入ると、左右に別れる大きな通路の左右の細い通路にはビッシリと店が並び、地元の人々や観光客で大いに賑わっている。竹の素材が柄の部分に使われているニューイヤーカードがなかなかいいのでこれを大量に購入。他に何か、といろいろ物色していると、小学生くらいの男の子が日本語で我々に話しかけてきた。「イイミセアルカラコッチニキテクダサイ」「ヤスクスルカラシンパイイラナイ」。手を引っ張るし面白そうなのでついていくと、お土産屋さんに連れて来られた。彼の口からは次から次に上手な日本語が飛び出す。店の主人との通訳兼値段の交渉役だ。これは1ついくらで3つでいくらとか、これはミャンマー製のお土産とか、後はこういうのがあるよなど、呆れるくらいうまい。どこで習っているのかと聞くとお寺でお坊さんから習っているという。末恐ろしい商社マンになるかも…。もちろんこの店で更にお土産を買ったのは言うまでもない。

つづく

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